進化における人類の責任

昭和45年(1970年)


最近の医術の進歩は実に目覚しいものがある。先日のテレビによれば390グラムの未熟児を無事に出産させられることに成功したという。この例ばかりではなく、生存し生活していく能力のないものを、医学の力により誕生せしめその生存を図っていく例は外にも数おおく報道され、知らされているところである。

ところがこれらは、我日本国憲法においても採用せられており、歴史的には人道主義の流れを汲む人間の尊厳思想に基づくものであるが、人間尊重、弱者救済と云う美名に隠れた、適者生存原理への反逆、自然の摂理に対する謀反の一面を持っているのである。大自然の巨大な力から見れば、非常に弱いというべき人間の力でこの原理にどれほどまで抵抗できるかを考えると、甚だ心許無く、不安が沸き起って来るのである。

現存のこの地球の生物体系がどのようにして形成されて来たのかについての詳しい点については、尚不明な部分が多く、それぞれの分野の学者が研究しているところであるが、少なくとも現在においては極めて調和のとれた世界となっており、微妙なバランスの上に成立している世界であることは否定できない。

或種の生物が多くなると、それを食物とする天敵生物が増加し、またそのふえた生物の食糧が十分でなくなるから、よっていづれは元の状態にまで、元の員数にまで減少することになる。かくして生存している生物は全て弱肉強食の生存競争の結果により、いいかえれば適者生存の原理によって、真に生きる能力ある生体のみが生きのこり繁栄しているのであり、僅かの油断によっても劣悪な種は生存する資格なき種として敗退し、滅亡していく運命にあるのである。かかる弱肉強食、適者生存の厳しい原理のもとに、無数の生物がお互いの微妙な且つ複雑なきっこうによるバランスのもとに、現在の地球の生体系を形成しているのであり、極めて調和のとれた世界となっているのである。その一部の環を失ってもその影響は、次から次へと及んで、究極的にはどのような結末に至るのであるかは、人智では考えもつかないのである。

さて前述の医学の進歩による結果は、一面では、大自然の力により造りあげられてきた調和のとれた世界に、人工的ないし人為的操作の介入を許すことになり、自然秩序に対し混乱の種を蒔いたことになる。このことは自然の手に委ねられ、調整され、果されてきた自然界の調和力を、人類が自分の任務として負担したことを意味し、その責任は人類が取らねばならない。その重大な責任に果して応じきれるかどうか、その責任能力が有るかどうか、これからの歴史により試験され、結論が出されることになろう。

尤もかかる混乱の種は、単に医学の進歩発展に限られることではなく、物理学、化学、生物学等の科学全般、更には人類がもつ知識全体に亙ることであるが、人類がその知能をもって多くの道具を開発し、自然界が、極秘のうちに包容していた自然摂理の解明に、神をも畏れず乗りだし、かなりの分野においてこれに成功し、人類の利益(究極的には不利益となる危険性がある)のため、逆用(客観的には悪用というべきであろうが)しはじめた当初にはい胎するというべきであり、結局は人類を発生させ、その存在を許したそのことが、神乃至自然のミスティクであったように思われる。

そもそもは自然界の調和を、最優先最上位の命題として掲げる大自然が、如何なる原因により、自らを崩壊させる要因を保有する異端児である人間を認知するに致ったのか、考えれば不思議なことである。

人類の物凄い程の級数的人口増、人間の手による自然破壊、各種動物の絶滅の危機、動植物の生体系の変化、或大陸地方の砂漠化などは、何方らかというと悲観的な結論に思いをさせられるようである。このことは人類の愚かにも無謀な、いわば生兵法に基づく運命の道づれにされようとしている他の動植物にとっては、甚だはた迷惑な事であろうと思われるのである。