このような文化の保有がどうして成立して来たのかを考えて見ると、それは生体的には、体形や顔形の変化にもみのがせない点があるが、重要な変化は大脳皮質の発達に求められよう。即ち類人猿より旧人、新人と進化する過程において、次第に大脳皮質が肥大化している事実が確認されるのであり、その発達した大脳皮質が文化を生み出し、生み出された文化の影響が更に大脳皮質の進化を促がしこの相乗作用の過程の中で、人類の進化と文化様式の取得が達成されて来たと考えられる。 人類と他の動物の比較において、大脳皮質の肥大化による文化の獲得の外にもう一つみのがせないことは、行動様式の変化である。即ち本来は他の動物と同様に、その行動は本能の制御下におかれていたのであったが、大脳皮質の肥大化とともに、人類は行動そのものをも、大部分を大脳皮質による理性の下におくようになりきたったのである。
そこで、人間が本能制御から抜けだし大脳皮質による理性の下に、人間行為が制御され且つ文化を生み出していることに、多くの人々は人間の特性を認め、人間と動物を厳然区別されるのを正当化しているのである。 このように人間の意識の上では、高尚な文化を保有する選良的種族として犬獣とは厳然区別されているのであるが、しかしながらどうしても動物性から脱皮出来ない部面、本能の統制から大脳皮質の統制下に移すことの出来ない部面、即ち人間の性行動の部面が残らざるを得ないのである。これは人類が如何に自己の能力を誇ろうと、結局は動物の一種族であって、生物分類上は霊長類の中に位置付けられサルとは区別されつつも、類人猿と共にヒト上科にいれられているその宿命を免がれないことを示しているのである。
それは単に性行動に限定されるものではなく、喜怒哀楽などの感情の表現その他の種々の心理的情状なども、動物性の露れなのであるが、性行動については極めてあからさまに理性喪失の状況を現出させ、正気の状態と狂気の状態との食い違いが大きく、文化を作出する人類としての理想像から著しく掛け離れた様相を呈するため特に問題とされることになるのである。
そこで人類の文化を打ちたてた理性そのものに価値を認める立場は、「人間は他の動物とは違っている筈だ。違っていない筈はない。」として、動物と同一に論ぜられるのを恥辱と感じ、性行動においても動物と人間の差異を追求し、強調し、特に動物性の強い面については、これを否定する傾向を示し、究極的には性欲の否定、禁欲を理想とし、肉体交渉は動物性を表現するものとして排撃するにいたる。特にヨーロッパに広まったキリスト教の思想によれば、性欲は子孫をつくるやむを得ない限度においてのみ是認され、快楽を求めるべきではないとされ、厳格な一夫一妻制が確立され、更に離婚の禁止により徹底されたのであった。この立場では、男女間の心情の交換は、精神的結合が最も高尚で人間らしいものとされ、動物の及びえない人間のみの特性であるとして、愛情或いは恋愛などの言葉で美化され、その本質である性欲性は、見事にカモフラージュされることになる。
確かに人類の特性がある面では肥大化した大脳皮質に由来する本能行為からの脱却に有ることは否定出来ないであろう。しかしながら、特性論により美しいとされている親子や夫婦間の愛情が浸出してくるその源泉として根底にあるものは、動物的本能であろう。決して血涙をろ過し、取りさったあとに残された冷徹な理性によるものではない筈である。多くの殆どの人々は、異性に対する欲望を抱き、これをもとめ、結合を図ろうとするのであるが、当初は精神的なものから入るにせよ、究極的には肉体的結合を目指していることは否定出来ない。我々を生み出し、育んできた自然が求めるのは、我々の生殖活動による人類の繁栄であった筈であり愛情はその手段であった筈である。これを否定し、人間から切り放そうとするのは無理であり、非現実的理論である。冷静な理性に基づく行為であっても、或いは本能に基づく欲望的行為であっても、ともに人間にとって意味のある有用な行為であれば、一方は高い価値を持つものとして評価され、他方は低い価値しか持たないものとして評価されるのは正当ではないというべきである。
人間の生殖行動も何等卑下したり、いやしんだり、人間の醜い部分と見なすべきではなく、芸術活動や学問研究などと全く同様に、人間生活の重要な一場面として均く是認すべきものであって、それらの間に価値的上下関係は存在しないのである。むしろ種々の欲望を持つからこそ人間が人間であるのであり、また人類の発展も期待できるのであり、これを欠く者こそかえって人間として本来有すべき性質を欠くもの、異常な者として考えるべきものであろう。
更に考えてみると、生物学的意味における人間の中にも、人間特性を有しない範ちゅうが存在するのであって、人間特性をもって価値有るものと認め、人間の重要な一要件と考える立場からは、人間特性を持たない範ちゅうの人間は、これを価値なきものとして区別し、人間の概念から放逐せざるを得ないであろう。勿論、人間の定義として、必ずしも生物学的概念を採用せねばならないわけのものではなく、各々の学問の立場に従って独自の定義をすることは当然のことであるが、しかし一般に定義と言うものは、一定の目標をもって打ち立てられるものであって、どうであれ定義が成されればそれで用が足りると言うものではない。人間の概念についても同様であり、何等かの機能を期待されて、定立されるものである。道徳上での人間の概念に期待されるものは、道徳的規制力であろう。人間たる物は一定の行為をすべからざるものであって、規制されている行為を、周囲の期待に背いて行ったときは、彼は人間にあるまじき行為をしたものとして、批判されることになり、この点から、人間の概念に対しては、道徳的意味での規範緑、規制力が期待されているのである。「非人間的行為」、「人でなし」、等という言葉は、正しくこの辺の事情を物語っているのである。
従って、人間の概念の前提には、先ず道徳的価値判断が先行的に存在し、その道徳的価値判断に従って行動できる人間のみに限定して、人間の概念が決定せられているのであって、そしてその概念に人間行動に対する規制力が期待されているということになる。世上しばしば人間ならどうであるとか、そうならば人間でないとか言われるが、それは人間という概念の前提である道徳律に反していることを意味するのであり、人間という概念から人類の道徳律が導き出されることを示すものではない。 そしてこのことは、道徳律ばかりでなく、宗教、哲学、芸術、教育その他一切のこれに類する文化に関して妥当するのである。
かって白人は、キリスト教思想に示される神により選ばれた種族として認知されたとの自負と、自分達が切り開いたヨーロッパ文化の実力を背景に、有色人種を犬獣と同列に比したときがあった。それはそれで宗教を根拠とし、それが故に宗教を限界とした一貫性をもった思想であったのである。しかしながら決して是認すべき思想ではなかったし、理論的にも批判されるべき思想であったので、現在克服された過去の思想となっているのも当然であろう。数多くの生物のうちから白色人種のみを取りだして特別扱いをする根拠は何も存在しないのである。そしてそれと全く同様に数多くの生物のうちから人類のみを取りだして特別扱いをする根拠は何も存在しないという命題が成立するのである。
勿論人間には人間なりの他の動物とは違った特色を持つのであって、だからこそ人間が他の動物と区別され、ホモサピエンスとして動物の一種に分類されているのであるが、しかしそもそも差異とは相対的なものであって、両者の比較のうちに存在し、ホモサピエンスが他の動物と差異が認められるということは、裏返せば他の動物はホモサピエンスと違った特色を帯有していることを示すのである。かかる特色を持っていることが価値あることかどうかは別問題である。価値の優劣は一定の尺度で測られるのであるが、大脳皮質の発達程度により比較すれば、人類は他の動物よりすぐれていると言うことが出来よう。しかし尻尾の長さを尺度として比較すれば、猿のほうが人類よりすぐれていようし、走力を尺度とすれば人類は犬にも劣るであろう。結局何を尺度とするかによって、答は違ってくるのであって、各々の動物達が互いにそれぞれ種類毎に特有の特色があるのと全く同等に、人類も他の動物と違った人類特有の特色があるにすぎず、人類が必ずしもすぐれているわけではない。
結局、人間が他の動物達とは異なった別格の存在であるという思想は、人間の幻想であり、ヨーロッパ文明の生んだ独善的思想であろう。人間も他の動物たちと本質的には何等異なるものではない。人類と他の動物とは上下、主従、或いは優劣などの関係にあるのではなく、自然の目からみれば地球上の生物体系を構成している一動物として、全く同格の存在であり、同列に論ぜられるべきものであり、いわば人間は俗な表現をすれば、被服を纏ったサルに過ぎないことを人間は強く認識すべきであろう。
そしてこの結論を肯定すれば、ヒトであるからとか、人間の人間たる所以であるからとか、獣とは違うからとかいう理由づけは成立しえず、人間であるからの故を以ては、道徳上の諸問題について、或は宗教上の諸問題について、或は哲学上の諸問題について、或は教育上の諸問題について、即ち人類の文化上の諸問題の一切について、如何なる結論も引き出すことは出来ないのである。