
人は死ぬ。何ぴともこの死を免れることは出来ない。私自身もである。死とは、虚無の世界である。その世界では、光もなく、物質もなく、時間もなく、主観そのものがない。自己自身のよって立つ、主体がない。光がないとか、その他の諸々の物質がないとかは、耐えることが出来よう。主観の存在に自己のよりどころを求めることが出来るからである。しかし、主観の消滅には、耐えるのは困難である。そのときは客体の存在までも無意味となってしまう。主観あっての客体であり、この世、現世の存在は、結局主観の存在に依存しているのであり、主観の消滅するとき、現世・・・・空間自体、そしてその中に存在する一切の物理的存在と現象、地球も、星も、日も月も、動植物等全ての生物も・・・・は消滅するのである。現世とは、”うつせみの借りる身なれば・・・・”であり、夢幻であると古人が言うのもまさしくである。現世の一切の存在と現象が、結局個個人の主観の存続を前提として、それに根本的に依存していることから出発すると、主観こそ一切であり、万物であり、真理である。そして、この一切であり、万物であり、真理であるものは、結局消滅するべく決定づけられているのである。
人は死ぬとは、即ち一切の消滅である。生まれてより、数十年もの長い年月、苦しみ、悩み、疲れつつ、営々として築き上げてきた、自分の社会が、人間関係が、家族生活が、富が、栄光が、そして英知が、総て虚無に帰る。勿論、これら諸々の一切は、自分の死後も、主観の消滅後も、現実の世界に存続し、他の主観−−−−それは客観の一部を構成している−−−−にとって重大な意味有るものとして、影響する。それは、真理である。しかし、あくまで現世の主観に立脚した真理であるから、主観の消滅と共に、やはり、無にきす。(それを無に帰すことなく、存続せしめるのは、主観の移動があるからである。主観の消滅と同時に、思想の立脚点を、他の主観へ引っ越すから思想の立脚点を失わずにすむ。)
人は死ぬ。この死と同時に、一切は消滅する。史上この方、数多くの人が生まれ死に、これを繰り返してきた。人は生まれ、結局一切を消滅の結果に至るまで、その生活を送っているのであるが、これは即ち無駄であり、無意味である。強いて意味を見いだすならば、他の主観にその意味を見いだすほかないであろう。各人の人生は、各人に取って無駄であり、無意味であるが、他人との関係でその意味を見いだすべしというのである。しかしその他人もまた、結局死すべきものであり、無駄なものであるから、そのためを図ることもまた、無駄であろう。消えていくもののためを図っても、結局無に帰すからである。
人は生まれ、生きて、そして死ぬ。究極の消滅に向かって、その存在を開始するのである。究極の消滅に向かってその存在を続けていくのである。究極の消滅に向かって消滅を前提としての存在の開始と継続。・・・これほど無意味なものが他に有ろうか。消滅すべきものが何故に発生するのであるか。
人は死ぬ。これは絶対であり、何ぴとも免れ得ぬ。それは人のみではなく、一切の生けとし生けるものについて当たる。一切の生物は、発生し、消滅し、また発生し、消滅し、これを繰り返していく。その故を知らず、その生存の目的を知らず、ただ本能の命ずるままに、現に自己が発生して、存在している故にのみ生活し、生きようと努力し、結局死んでいく。地球やその構成物たる土砂岩石さえ、発生したものらしく、そして消滅するらしい。結局殆どのものは、発生し、消滅していく。何が故の現象であろうか。