人権と長髪禁止

昭和61年(1986年)


公立学校教育において、非行防止という理由にもとづき、校則と称し全児童に対し一律に長髪の禁止、甚だしくは丸坊主の強制などの統制を行うことがしばしば見られるが、かかる統制には非常な反感を覚えるものである。
頭髪の長短などの個人の容貌や身体的形質に関する事項は、極めて強度に人間の尊厳に関しており、宗教信条あるいは良心などと全く同様に人格権の構成要素として認められるものであって、それが参加不参加の自由、加入及び脱退の自由が認められている私人間の法律関係ならいざしらず、公共的組織体にあっては、安易に統制すべものではない。
個人の尊厳の原理は、長い人類の歴史のなかで、多くの犠牲を払って獲得してきたものであり、各人が崇高な価値を持つものとしてともに平等に尊重されることを要求し、現日本国憲法においても当然のこととして、採用せられているのである。特に憲法第13条の規定は、公共の福祉を理由としても妄りに個人の基本的人権を制限することを禁ずる意味を持つものであって、個人の人格はこれを最大限に尊重されるべき旨を宣明したものである。現法制上、最上位規範により人間尊重主義が採られている以上、同じく法制度として存立する教育の立場からは、この思想を尊重し、これに従うべきなのは当然であろう。
勿論、個人の人権も、公共の福祉の必要があるときはこれが制限を受けるのであるが、各種人権のうちでも最も人間の中核を形成する権利である人格権を、非行の防止という課題のもとに制約することが、公共の福祉による制約として認められるかどうかは、極めて疑問である。
非行問題は、非行性を持った内面的思想傾向がまず存在し、その投影である外形的様相(喫煙とか化粧とか)として発露するものであって、個々人の非行性を持った外形的様相が独立して存在するわけではない。従って外形的様相を強制することにより一旦は消えさって、教育者の責任をみごとに上手に回避出来たように見えたとしても、その根源である内面的非行傾向はその内部の心理にくすぶり続け、却って将来に禍根を残し上級教育者の負担を増す危険性が強く、外形的様相を規制することによっては、内面的思想傾向の表現である非行問題を、根本的に解決できるものではないのである。
外形的様相を規制し、統制された教育を図ろうとすると、非行問題を解決できないばかりでなく、その画一的教育方法により、個々人が有する魅力ある将来性豊かな個性を喪失せしめてしまい、却って本来教育が予定している各人の個性を尊重し伸ばし、更にこれを磨きあげ大きく育て、それによりその個人の幸福な成長を狙いとする教育の目標に背く危険性がある。
ひるがえって考えてみると、そもそも長髪と非行との関連が疑問であるように思われる。長髪者必ずしも非行者とは限らない筈であって、当否を別とすれば、せいぜい長髪者には非行者となる蓋然性が多いといえるのみであろう。しかし例えば、(仮の話として)知能劣弱者は非行に走る例が多いという統計が有ったとしても、それが故に特定の知能劣弱者を、はじめから色眼鏡で見ることは許されないと同様に、各人の個性を重んじつつ個別に為されるべき教育の具体的場において、一括的に長髪と非行を関連づけて対応することは許されるべきではないと思われる。
このように、長髪禁止、丸坊主強制などの外形の規制によっては必ずしも非行問題が解決するものではなく、かえって個々人の個性を喪失させ、教育制度に対する不信感をいだかしめるなどの危険性があり、また非行と長髪との関連そのものが疑問視されるとなればかかる方策は到底公共の福祉性を持つものとは認められず、高度な尊重を要求されている人格権を制限する根拠とは成りえないものと考える。
そして教育問題に限らずいろいろの分野でこれに類する問題が生ずるのも人間の尊厳に基づく民主主義思想が、外観的にはうけいれ、取り入れられたように見えても、日本では未だ成熟しておらず、根付いていない所為であろうし、更には、憲法並びにこれに根拠を有する諸法制を執行している日本の行政の中核である肝腎の官僚が、憲法の目指している人権尊重主義並びにその実現のための諸制度の意義を、よく理解していないためであろうと思われかかる事例に接するたびに、リベラリストにとっては義憤に耐えないのである。